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頬杖をつけば冷たいてのひらにわたしはふたりいるんだろうね (中家菜津子)
新鋭短歌シリーズ・中家菜津子『うずく、まる』を読んだ。
表紙はゴッホの絵。糸杉がそびえる夜空は渦をまくような独特な筆致で描かれる。
これは重い、と思いながらもよく見ると意外に夜空は明るい青。月も星もひかりを放つ。
それは一冊を通して読んだあとのイメージと綺麗に結びつく。
先に総括的なことを述べるが、家庭の事情か健康上の問題か、昼間は外で遊べない子供が夜ひとりで思いっきりやりたい放題遊んでいる、そんな印象を受けた。
作者は言葉で遊ぶ。
見開きに5首から7首。それに詩が組み込まれるから情報量としては多く読みすすめるのになかなかのパワーを要した。生命力旺盛な子供と遊ぶには体力がいるというわけだ。
たまもかる沖を眺める何もかも風にゆだねる真夏のかもめ
木漏れ日の椅子にこしかけこすもすをひねもすゆらす風をみおくる
かえりたくない日にしりとりくりかえすかなりあありあありかかなりあ
やわらかな月のゆばりを浴びるのはひばりの声をさえぎった窓
表題になっている
うずく、まるわたしはあらゆるまるになる月のひかりの信号機前
も「渦」、「疼」、「丸」「。」と込められている。言葉の響きとイメージの連鎖が自然とも巧ともいえる絶妙のところにある。
先に「やりたい放題遊んでいる」と書いたが(誤解のないようにはっきり書きますが、これは肯定的な意味です)、「歌集」に「詩」を編み込んだのはまさにそう。
歌集といえば「連作の束」というのが通常だが、「詩との融合、越境」ということとはまた別に「短歌を発表するしかた」として考えさせられる。
イラスト×短歌、写真×短歌、というものもすでにあるけれども、自分が短歌を世に送り出すとき従来の「連作として」という方法以外に何かないかということを思いめぐらした。
詩と短歌のフュージョン作品ということでは《etanpet》がとても印象深かった。
最後の注を読んでああそういうことか、と思ってもなお、現実と夢を行きつ戻りつするようなゆらぎのひと時を過ごすことができた。
短歌の連作としては
「沃野の風」
じゃがいもの皮を剥くとき母親と同じ仕草で首を傾げる
だだっ広い胡瓜畑の迷路にて父は年々大声になる
一首としては
バスの窓に額をあてるこの街のどのネオンより雪は青くて
歯車のひとつのようなケチャップの白いキャップが床をころがる
フィクションを読む人おおきなくしゃみして新聞を読む人が驚く
椅子はみな睡蓮に似てそこかしこにうつむく人の背中をつつむ
親指で傘をひらくとひとつだけ折れてしまった銀色の骨
などから広がるイメージを特に楽しく読んだ。
はじめ一人による共作として「作者がふたり居るよう」とする締めくくりを考えていたのだが書き進めるうちにそうでもなく、何か一貫した視点のようなものを感じている。
あるいはふたりいたとしても仲良くやっているのだろう。
一首でも連作でも詩でも今後の展開も楽しみにしています。
言葉にはできないことが多すぎて菜の花の〈菜〉のあたりに触れる (土岐友浩)
書肆侃侃房の「新鋭短歌シリーズ」・『Bootleg』(土岐友浩)を読んだ。
「言葉にはできないこと」に対して穏やかにして相当な執着がうかがえる歌集であるように感じた。
来た道を歩いて帰るさっき見た花火のことをずっと話して
なんとなく空がぼんやりしはじめる山と山とが重なるあたり
雨らしきものはけっきょく降らなくてスクールバスが県道を行く
難解な言葉、表現が使われないところは一貫している。見開きに3から4首で編まれていて平明でありゆっくりした時間が流れている。この「ゆっくり」ではあるけれど「時間が流れている」という印象は連作のなかだけでなく一首のなかにもたびたび色濃く感じた。
何気ないうつろいを何気なく切り取る魅力。
しかしまったりさせられるばかりでなくて、時にぽんと下の句が飛躍をみせるところが心地よい。
いまはもうそんなに欲しいものはない冬のきれいな木に触れてみる
砂浜はまだつめたくてあなたなら僕よりもっと遠くまで行く
夕空が酸化していくこの道を血だらけになるまで歩きたい
また飛躍というよりも唐突だったり混乱をきたすようであるけれどイメージがすっと腑に落ちるような歌も。
ようこそ、新しい家へ。両耳に鈴の入っているぬいぐるみ
あざやかな記憶のしかし桜草死を看取ったらあとは泣かない
「言葉にはできないこと」をどう表現するかというところで、「言葉にはできない」ことが「金魚」だとしたら金魚掬いの「ポイ」としての短歌に「無理をさせない」「水の抵抗を与えない」ということに注意をされて水の中をのぞき込んでいる作者の姿勢を、屋台のオヤジであったり客であったり金魚であったりと立場をいろいろに変えて見て取れるようでもありました。
『工藤吉生短歌集』をいただいて読んだ。
プロ野球選手のカードを集めるがG・G・佐藤ばっかり当たる
自分が工藤さんの短歌として読んだ最初は、「うたらばの集い」で目にしたこちらの歌だった。
その時は素材というか着眼点が面白い歌だとは思ったが、詩情の面では物足りないように感じた。
しかし今は自分の鑑賞が十分でなかったことが分かる。
「G・G・佐藤ばっかり当たる」ことを「かなしみ」とも「不条理」とも書かず、規定せず、「事実」だけをまるでカードをバサッと投げ出したように提示したことで、読み手の経験であるかのように脳に入り込んでいくように思われる。
この歌は実際今もっても忘れられない一首となった。
工藤さんの歌が記憶に残る理由として太い油性マジックで書かれたような力強いフォルムを持っていることもある。
「死ね」という言葉によって君の持つ説得力が自殺したのだ
ヒョウ柄の強そうな人を後ろから見ているオレの柄はチェックだ
「〜だ」とか「オレ」というのは特徴的だけど自分などはすがすがしさを感じる。
一方で繊細さも失われない。
行間に鳴いているのが秋の虫 花火が一つの詩であるとして
朝の陽のまぶしすぎれば回想のようで遠くに自転車の人
また子供に対する眼差しの澄みきったことには本当に驚かされる。
子供にはちょうど良さげな枝だなあ 構えてもよしつつちてもグー
学校のチャイムが鳴った。そのことでやめた遊びの面白かろう
眠ってる赤子に青いミニカーを握らせ思い直して奪う
ぼくは汽車、汽車なんだぞー! と駆けてきた子供がオレにぶつかって泣く
最後に収録されているのは「仙台に雪が降る」30首。
第57回短歌研究新人賞候補作になった作品だ。
親指に指紋があると思い出し無性に見たくなり飛び起きる
透明な犬飼ってます透明な犬用のエサ食べさせてます
中でもこの二首の空恐ろしさが印象深く、また工藤さんの作品のなかでも異彩を放っているように感じた。
とりとめもなく書き散らかしてしまったが、これからもこれまでのような、そしてまた新しい工藤作品を楽しみにしている。
お風呂場の天井裏に隠れてて湯気を含めばきゅるきゅる回る
こそげたらいやこそぎたいドライバー綿棒木べら歯ブラシ他で
蓋をして回してみたらくしゃみしたみたいに埃出す換気扇
ハタハタを初めて食った。頭から食ったし妻の頭も食った
うさぎには申し訳なく一円分どんぐり贈る三円のリス
男たちがリスを育てる。リーダーとタツヤが胡桃の苗木を植える
カクダイかカクダイなのか!コリスだと思い込んでたクッピーラムネ
しりとりを覚えたリスは「リス!」のあと「スリ。」と返され悲しくなった
エゾリスは冬眠しない。エゾリスはひどい言葉を言ったりしない
リスの名はノボル。のぼってものぼりきっても金網だけど
ハローハロー リスは返事をしないけど心のドアをそら色に塗る
アマリリス。余りのリスは居ないかと地上の人に問いかけている
「リスクマネジメント」て何だ。リスと熊、螺子は分かるがメントて何だ
「リスカ」なら意味は分かるよ。シマリスがかーっとなって落ち込むやつだ
リスカとは動物界脊索動物門哺乳網ネズミ目のリス科のことだ
慎重を期しても木々は枯れるけどこのシマリスのシマは消えない
春立てばリスの尻尾が生えてくる。風に膨らむ誇らしい尾が
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